平家が再建した厳島神社と源氏を匿った奥州藤原氏の平泉中尊寺
平清盛は日宋貿易で財を成すために瀬戸内海の航路を整備し800年代創建の厳島神社を大改装した。
源義経が生まれたのは1159年、清盛42歳の頃。同年に起こった平治の乱で敗れた父・義朝は清盛に殺されたが赤子だった義経は鞍馬寺に出家することで命が救われた。だが16歳の時に出家を嫌って奥州平泉の奥州藤原氏の秀衡の元に逃げ込み7年を過ごしたが、清盛急死の情報を以て、異母兄弟の頼朝とともに平家打倒に向かう(源平合戦)。1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家は、安徳天皇(清盛の孫)もろとも海の藻屑となる。
ここから生まれたのが平家物語「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」。
義経は再び奥州藤原氏の秀衡を頼り、秀衡は義経を主君としともに頼朝を襲うよう遺言したが、息子たちには裏切られ自害する(31歳)。
また、頼朝はこの一件を理由に東北で自立を続けた奥州藤原氏を滅ぼした。
源平の栄枯盛衰は無常観となり、後に松尾芭蕉が詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」に繋がっている。
「判官贔屓」は義経に対して抱く同情のようなもの。