100分de名著 歎異抄 第3回「迷いと救いの間(はざま)で」

NHKEテレ 静岡 2016年4月20日 (水) 12:00 (00:25)
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シリーズ: 100分de
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誰もが一度は読みたいと思いながらも、なかなか手に取ることができない古今東西の「 名著」を、25分×4回、つまり100分で読み解く番組です。
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みんなのレビュー

哲学?としては面白いですが、仏陀の教えに近いと言われる初期仏教とは異なると感じるなぁ
哲学?としては面白いですが、仏陀の教えに近いと言われる初期仏教とは異なると感じるなぁ。
若い頃は小乗仏教(初期仏教)ってしょぼいって感じてったけど、今思うとあまりに大乗仏教ってアバウト過ぎると思うようになった。

善悪の基準は時代や状況によって変わるのは理解できるが、今より自分的に腑に落ちるのは初期仏教ですね。
「害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」それはないよ
理由の如何に関わらず人間を1000人も殺したら往生できる訳がない。
親鸞というのはたとえ話が上手くないし、詭弁を弄してようにしか聞こえない。
それとも唯円が話を捻じ曲げたのかな。
私見によって教えをゆがめる「自己の偽物性」って言うけれど、誰の教え?
親鸞の説く教えであって、ブッダの教えではない。それなら、私見によってブッダの教えをゆがめているのは誰なんだ?
過激な例えで既成概念を壊した人
ブッダはたくさんの人を殺したアングリーマーラーを導き、最期に投石を受けて亡くなったマーラーを涅槃に達した、と言ったという。
つまり千人殺そうが涅槃に至り得るし、千人殺す人はその因縁にいたのであり、そこは酌量されることなのだ、ということを伝えたくて千人殺せるか、という例え話になったのか、と想像する。
それだけ鎌倉時代には行き過ぎた世の中にあったのではないかなぁ、と思う。我見の仏教に一石を投じたのが親鸞だったのではないかな、と思いながら観させてもらいました

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